理解とは

 

Twitter で医師を拾ってきて Google のソフトウェアエンジニアにするだけの簡単なお仕事 - 白のカピバラの逆極限 S.144-3

「何をどれくらい知っていなくてはいけないのか」と聞かれたので、ちょっと考えてから、右手を前に突き出しました。手を開いた状態で右手を伸ばしたあとに、「手を握ります」と宣言してからゆっくりと手を握ってみせました。「いま、手を握ろうと思ってから握るまでのあいだに起きたことをできるだけ詳細に説明してください。」

コンピュータに置き換えると、Linux上のC言語コードが実行される過程をできるだけ詳細に説明してください。という感じだろうか?まさにCS:APPはそのための本だけれど、この置き換えが適切かはわからない。

どこかで、必要な知識を知っているより、その知識がどの場所にあるかを知っている方が重要という話を聞いたような気がする。情報が氾濫する時代にこのような考え方が広まってくるのは必然だと思うが、後者だけの場合、インデックスとなったその人自身は本質的には必要とされておらず、仲介役でしかない。というか書いていて思ったが、知っていれば十分な知識に限っての話だった。「知っている」と「理解している」、この違いは大きすぎる。

必要な知識を理解しているより、その知識がどの場所にあるかを理解している方が重要。

こうすると、そもそもこの文が成り立たないような気がしてくる。必要な知識を理解していないのに、その知識がその場所にあることを理解できるのか?この文の後者の「理解」はなぜそれがそこに存在するかを語れるといった程度だろうか。つまるところ、文脈を踏まえて全部、あるいはおおよそ、分かっている必要がある。

ところで私は何も理解していない。